世界映画史
映画と政治

映画というものは、観る者の心情にダイレクトに訴えかけてくるものです。それは例えば、一本の映画が時には誰かの人生を変える(ぼくのように)ことも少なくない。
映画は人を感動させる。そして、感動ほど人を誘導しやすい素材はないと言えるでしょう。しかも正義と悪という、単純な二元論で納得させることくらいは造作もないことなのです。そうであるからして、当然の結果だが政治に利用される機会は自然と多くなる。古くはナチス、最近では北朝鮮と、映画をプロパガンダに利用する政治権力は枚挙にいとまが無い程です。
映画を語る上で。まさに映画と政治の密接な関わりは、避けて通れぬ道であると思います。

恐らく、世界で最も早く映画をプロパガンダとして採用したのはナチス・ドイツ、つまりヒトラーであろうと思います。
ナチス・ドイツは、より進歩的なものを好む傾向にあったため、当時は他メディアよりも進歩的であった映画に目を付けたのだ楼と思われます。
ナチス・ドイツの宣伝大臣として有名なヨーゼフ・ゲッベルスは、映画会社の中でも最大手のウーファーの買収など、特にメディアコントロールに対して熱心で、「ニーベルンゲン」のフリッツ・ラングにもプロパガンダ映画の制作を依頼したものの、その日のうちにアメリカに亡命された話は特に有名なものです。
しかし、それでもゲッベルスは悪の親玉として言われながらも、映画を巧みに使おうとしていたことの証明として「映画で政治を語るな」と言っていたことにあります。彼はあくまでも映画はエンターテイメント、或いはアートでなければならない、そうでなければ国民の関心は呼べないということを知っていたようです。

実際の例を挙げてみましょう。

「意志の勝利」(原題:Triumph des Willens)リーフェンシュタール監督制作なのですが、この映画は実質、内容はあまり練り込まれていないナチスの宣伝映画となっています。しかし、映像として観ると、当時としてはかなり斬新な手法を取り入れており、他のプロパガンダ映画と比べても遥かにクォリティが高く、映画ファンの間でも評価が高い作品となっている。
リーフェンシュタール監督は本来、プロパガンダ映画などにはまったく興味を持っておらず、ナチスに加担するつもりはこれっぽっちも持っていなかったのですが、ヒトラー直々の再三の要請に断り切れなくなってしまい、この作品の製作に臨んだ言われています。穿った見方をするならば、その内面的な矛盾点から生まれる美を追求することによって、映像美へと昇華したのかも知れませんね。

さて、ファシズム以外でも、共産主義国家はプロパガンダ映画の宝庫となっています。
絶対的な言論統制によって、外部の情報をほぼ全てシャットアウトしてしまうという、愚民政策とも言えるやり方で国民を骨抜きにした後に、プロパガンダで集中的に統制するのが基本的な国策なのですから、当然と言えば当然なのですが。政治や経済、生活水準等でもし国内に不満がたまるようであれば、他国を敵として祭り上げ、敵対心を煽ることでガス抜きをするのがまた常套手段となってしまっています。それ故、その度に粗製濫造されていく、決して面白みも特筆すべき個性も無い(斜めに見れば別なのですが)上に映像的クォリティも低い映画が生まれるのです。恐らく皆様もあまり観たくないかも知れませんが、ここで中国のプロパガンダ映画を紹介させてもらいます。

「南京1937」呉宇森監督作品、1995年公開。これはもう、支離滅裂な作品となっています。南京にいた30万人の中国人を、日本軍が皆殺しにしたというものです。ただひたすら残虐な日本兵の行動と逃げまどう中国人を描き出しただけであり、そもそも南京大虐殺自体も今はその存在さえ日本では疑問視がされています。その上、映像的には凡庸というにもおこがましく、見所と言えるものがまったくと言って良いほど存在していません。

しかしながら、このようなプロパガンダ映画を観ただけで、涙を流して謝る日本人が実際には少なからず存在しているという困った現実があります。
日本人という民族は、ひょっとしたらプロパガンダに世界一弱い民族ではないかと、ついぼくは邪推してしまいます。

もちろん、今や東アジアをお騒がせしている北朝鮮も、自称:共産主義国家らしく、プロパガンダ映画の宝庫となっています。なにせ、トップの金正日がかなりの映画好きなため、中国とはまた若干事情が異なってきます。そこで、今回は個人的に面白いと思うものを紹介する。

プルガサリ 伝説の大怪獣 申相玉監督 1985年作品 実はですね、これはタイトル通り、一応は怪獣映画というわけなんですけれど、貧乏な民衆は北朝鮮を、悪逆非道な役人は日本を、怪獣は北朝鮮の兵器を現しているそうなのです。ちょっと強引ですがプロパガンダ映画ではないかと思いますが、ええ、ちょっと苦しいのはぼくも承知なのですけどね。しかし、これをただそれだけで語るに終わらせるのは惜しいのです。この映画は何と、プルガサリの中の人というのがゴジラの中の人と同じ人が演じておられるのです。すごいと思いませんか? ゴジラのスタッフを使って、こんな意味のわからないカルトというか、プロパガンダ映画とも言えるかどうかさえ微妙な作品を作れることに、ぼくとしてはいっそ敬意を表したくなる気持ち、皆さんに理解してもらえたら嬉しいのですが…

やっぱり無理ですよね。

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