様々な歴史を紐解き知っていく中で、いつも一番面白いと感じるのはこの辺りだと個人的に思います。
1932年、ついに世界初の国際映画祭であり、世界三大映画祭のひとつに数えられるヴェネチア国際映画祭がこの年、初めて開催されました。これは世界最古の国際美術展「ヴェネチア・ビエンナーレ」の映画部門として第18回から開始されることとなり、当初、最優秀賞は観客による投票によって決定されました。
しかしこの時期は、ファシストと映画産業との蜜月とも言える時代であり、1934年-1942年の間に於いて、最優秀賞のタイトルは「ムッソリーニ賞」(イタリア人、ファシズムの創始者の名前)とされ、折悪しく戦争の影響もあって参加者が激減するのです。
政治と戦争、プロパガンダと映画の関係につきましては、後々別カテゴリにて詳しく語ることとさせていただきます。
1934年に、映画制作倫理規定「ヘイズ・コード」というものが制定されることとなりました。
これは映画という新しいメディアに対して、若者や犯罪者に与える影響が強いという理由から、暴力的表現や過度な性的描写、社会風刺を含むようなものに一定の制約を与える規定です。こうしてこの文章を書いていると、なぜか、最近も似たようなものを身近のどこかで聞いたような気がします。しつけや教育の不手際を新しい娯楽のせいにする、いつの世も変わらないものですね。
「最近の若いものは」というのは古代から現在に至る、人類に共通する言葉のようですが、その若いものを育てているのは大人なのですから、責任をなすり付けるのはどうなのかと。
本当に人間というのは進歩しないものなのだという、一番良い見本のようなものですね。
1935年、世界初のカラー(総天然色)映画「虚栄の市」がルーベン・マムーリアンによって公開されることとなります。
原作者はウィリアム・ザッカリーであり、当時の上流階級への痛烈な批判と皮肉をテーマとしています。
この作品は既に、サイレント映画の時代から何度か映画化されていて、題材としてはとりたてて目新しいものではありませんでした。しかし、だからこそ一般大衆への知名度もあり、ある意味で新しい試みに挑戦するための土壌としてはうってつけの作品となっていたのです。そして、前監督の死後、ルーベンス・マムーリアンがその遺志を引き継ぐこととなり、紆余曲折を経て、ついに初めてのカラー映画はその産声を上げることとなるのです。
さて、折りも悪くして勃発した第二次世界大戦。戦火が広がるそのさ中には、ドイツやフランス(いわゆる枢軸国側)から、アメリカに映画業界関係者が多数亡命することとなります。
そのため、戦時中であるにも関わらず、当時のアメリカ映画界は時代を追い風として「アメリカ映画の黄金時代」と呼ばれるほどに目覚ましく発展し、ハリウッドはまさに名実共に世界映画界の頂点として君臨することとなるのです。
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