世界映画史
スティーブン・スピルバーグ

スティーブン・スピルバーグ 1946年12月18日-

現代映画業界では、あまりにも有名過ぎて知らない人は居ないであろう大人物。
彼はもちろん今もまだ存命中なので、ある種歴史上の人物ではありません。

しかしながら、映画界における彼の功績は、それはもう生半可なものではなく、世界最高の巨匠と言ってもなんら差し支えはないでしょう。むしろ、映画の歴史を語る上で、彼を紹介しないのはあまりにも片手落ちだと思います。

アメリカ、オハイオ州でユダヤ系移民の3代目として生まれた彼は、アリゾナ州で育ち、幼いころから映画に対して並々ならぬ興味を示していました。いつしか彼は、8ミリカメラで自主制作で映画を撮影していました。

当初の作風はディズニーから強く影響を受けており、現在の作風とは大きく違っていたようです。もちろん、当然のように映画の道を志したものの、映画にのめり込みすぎていたせいで勉強は二の次、三の次になっており、結果、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼンルス校)を受験するものの、見事に不合格となり、さらに映画学科で有名な南カリフォルニア大学を受験したものの、これもまた不合格となります。仕方なく、スピルバーグは全く無名のロングビーチ大学に入学することになります。

しかし、有名大学には入れなくともさすがは天才スピルバーグです。ロングビーチ大学在学中に製作した映画が評判となって、すぐにハリウッドからお呼びがかかることとなります。

やはり見ている人は見ているのですね。ちなみに、有名大学への進学に失敗した才能ある人々が、有名大学に進学した人よりも功績を残すことが多い事象を、彼の名を取ってスピルバーグ効果と呼ぶそうです。

そして1972年、テレビ用映画「激突!」(原題:Duel)が評判となり、日本を始めとして海外数カ国では劇場でも公開されることとなり、スピルバーグの名は世界的に知られるようになっていきます。この映画は「ジョーズ」でも知られているような、スピルバーグ的な追跡手法を使用した、彼独自の技術的特色が強く出た意欲作であり、この続編である「続・激突! カージャック」が彼のアメリカでの映画処女作となっています。 その後も意欲的に新技術を取り込み、様々なジャンルの映画に挑戦することとなります。そう、後の代表作となる、「E.T」や「未知との遭遇」などの夢のある異星物であったり、「インディ・ジョーンズ」シリーズなどの冒険物、そして「ジョーズ」シリーズなどに観られるホラー物など多く手がけ、数多くのヒット作品を生み出します。そして1993年、「シンドラーのリスト」で、やや遅くさえ感じられたアカデミー賞を受賞することになります。

2005年の作品「ミュンヘン」でも見られるように、スピルバーグは戦争そのものを嫌っており、この作品の製作にも意欲的に取り組み、なんとこれほどの作品にも関わらず報酬を受け取るのを拒否しているのです。

時は同じく1993年、ジュラシックパークを公開。
映画史上初めて、大々的にコンピュータ・グラフィックスを取り入れた大胆な作品であり、以降の映画界全体に大きな影響を与えることとなりました。1994年、スピルバーグはドリームワークスを設立し、1998年、「プライベート・ライアン」で2度目のアカデミー賞を受賞します。激しい戦闘画像などもさることながら、ライアン二等兵を救うまでの物語、命の軽さや戦争の悲惨さを、時に真面目に、時にシニカルに伝える名作です。

2001年、英国王室から騎士爵を授与されることとなります。これはたいへんに名誉なことであり、どれほど彼が世界的に認められているかを、まさに如実に物語っています。 以降も名作を次々に製作しており、これから先、彼が本当の意味で歴史の1ページになるその日まで、彼の動向から目が離せません。

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